いやこれは愛なのか・・わからん・・・最近自分の愛が依存が元になっていることに気がついて、自分を疑っておる・・
— マイ⚡️キミに決めた!⚡️ (@iamxxxgv) July 17, 2023
うーんとね・・・ポケモン(特にピカチュウ)に関しては癒やしと依存だった。親がかまってくれない寂しさを埋めるのと、親がわたしを全否定するからその承認欲求を求めてた。うん。今はもう依存が抜けてきてただのピカチュウ大好きなおねーさんになってると思うけども
— マイ⚡️キミに決めた!⚡️ (@iamxxxgv) July 17, 2023
突然なんやねんって思うかもしれないが
わたしは大真面目だ。
わたしが日頃から推しにつぶやいている
「好き!!」や「愛してる!」は
果たして本当に純粋な好意なのか?愛なのか?
そこには依存と執着が隠れていないか・・?
「好き」と「愛」、「依存」と「執着」の辞書的な意味
どーも、マイ(@iamxxxgv)です。
どうやらわたしは考察するのが好きだ。
あれやこれや持っている知識で思考を巡らせたり、
本を読んで知識を得て思考回路をアプデしたり。
お絵かきと同じ。
生きるために必要なこと。
呼吸や休息みたいなもん。
てなわけで考えていこう。
まずは言葉の意味から。
すき【好き】
デジタル大辞泉
心がひかれること。気に入ること。また、そのさま。
あい【愛】
デジタル大辞泉
かわいがりいつくしむ。思いこがれる。いとおしいと思う気持ち。
なんだろう、言葉の意味だけで見ると、
愛は好きの上位互換みたいな感じですね。
最初のきっかけは好きで、
その後愛になる感じかな。
うん、だいたい認識合ってたわ。
い‐そん【依存】
デジタル大辞泉
他に頼って存在、または生活すること。
しゅう‐ちゃく〔シフ‐〕【執着】
デジタル大辞泉
一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。
似てるようでちょっと違う感じがする・・。
依存は寄生虫みたいな感じで、
執着は1つのことでまわりが見えなくなる感じかな。
では、わたしの好きな推しについて、
ちょっと掘り下げてみたいと思う。
正直ココロがめっちゃ痛い。
だが負けない。
※ここでいう『執着』の定義はこちら↓
:親に認められたいという欲
※ここでいう『依存』の定義はこれ↓
:親に認められるために趣味に頼る、趣味を義務的にやる
ポケモン(特にピカチュウについて
ポケモンは、ピカチュウは、
ココロの拠り所であり、
依存先であり、癒やしです。
親が全然構ってくれなかったから
寂しかったってのもある。
それまで好きになって
「スキスキ」って言っていたものは、
どういうわけか親が「そんなの駄目」と言って
取り上げて奪われていった。
ポケモンを、ピカチュウを好きになるまでに
大切なものを少なくとも2回は奪われている。
(ピアノと、コナンのマンガ)
奪われたせいで身近に夢中になれるものがなかった。
だからだと思う。
トキワのもりで出会った、
序盤とくしゅわざが使える有能枠。
出現率も低いからレア。
しかもかわいい。
一目惚れでした。
この時点では単純に”好き”。
そこからどんどん好きになって、
リリースされるもの、公開されるものは
欠かさず観に行ったり、
お小遣いで手に入るモノは購入してた。
それも”できる限り完璧に”、
”できる限り大量に”。
◇
◆
正直ここの部分は依存というよりかは、執着。
なんでここまでやったかっていうと、
”これくらいやらないと生きている意味がない”って
思っていたからだ。
ここにはわたしの恐ろしいほど低い
自己肯定感が影響していることは間違いない。
なんせ親には四六時中否定され、
褒められることはなく、
最高点を叩き出す優等生でいることを求められたため、
”ありのままの、そのままの、素の自分では駄目だ”と思っていました。
だから異常なまでに執着した。
「これだけこの映画観に行ったの」、
「これならわたしも生きていていいでしょ?」と。
いや、歪みすぎだろwwまじで。
この低すぎる自己肯定感は、
特にGLAYちゃんにも影響しています・・。
◆
◇
この執着は、
30歳を越えた頃に
少しずつ手放せるようになっています。
「追えるもんだけ追おう」、
「行けるやつだけ行こう」、
「疲れるからw」という感じで。
体力の関係で強制的に手放した感じですね。
うーん衰えかな????www
でも”質”は上がってるのよ。
ピカグリとかも全通ではなく、
その日の1回で行くから、
もう集中できるのね。
ピカチュウの挙動一個一個見逃さない、
目に脳に焼き付ける感じ。
20代はいくらやっても満たされなかったのが、
30代は満足度が高いです。
これも他人軸から自分軸に戻せたからでしょう。
今はほんとにラブ。
全身から溢れ出るピカチュウちゃんへのラブ。
そこにいるだけでココロが浄化される。
歪んだ思いで付き合っていた時期はあるけれど、
ずっとずっと癒やしであり、相棒であることは変わらない。
わたしとずっと一緒にいてくれたのはピカチュウです。
親よりも長く一緒にいて、
ただ傍で見守ってくれてます。
これが今までどれだけ心強かったことか・・・
キミに会えなかったら多分、
親にいいように使われてすり減って
自死を選んでたと思うよ。ほんとに。
GLAYちゃんについて
GLAYちゃんを好きになったのは中学生の時。
それよりも前にオリコンとかTVでみてて
なんとなくGLAYちゃんの存在は知っていたけれど。
本格的にハマったのは中学生のときですね。
わたしの中にある固定観念を
ぶち壊してくれた存在です。
衝撃でしたね、今も脳みそが痺れた感覚覚えてる。
『DRIVE』で「Winter,again」を聴いたときの
「あ・・あの冬の曲歌ってたお兄さんたちだ!!」と
思い出したときの衝撃よ・・・。
で。問題は・・・
GLAYちゃんを好きになったことを、
”毒親の母親が喜んだ・歓迎した”こと。
「ああやっと人並みの趣味を手に入れたわね!!」
「これでお母さん周りに自慢できるわ!!」、と。
(この言葉、わたしに直接言ってますからね?まじで。)
この反応を見て当時のわたしは嬉しかったの。悲しいことに。
「やっとお母さんに認めてもらえた」って。
「お母さんが誇れる娘になれた」って。
親の言葉で、単純に好きで聴き始めたGLAYちゃんが、
親の評価をキープするためのステータスになってしまった。
GLAYちゃんを追いかけることが義務になってしまった。
・・・これはもう依存と執着だ。
そして愚かなわたしは周りに言いふらすのだ。
GLAYちゃんが好きであることを。
そうすれば親も喜ぶし、
「普通の女の子」になれるって思ってたから。
長女としてではなく、姉としてではなく、
いらない用無しの子どもとしてではなく、
愛されない愛する価値がない子どもではなく、
「普通の女の子」として生きていけるって思ってたから。
GLAYちゃん、本当にごめんなさい・・。
大好きなあなた達を親の評価を維持するために利用して。
本当にごめんなさい。
こんなことを、
10代から20代前半まで、
やってました。
・・まじで恥ずかしいし、申し訳ない。
では、今は?
30代の今はどうなのか?
もちろん好きだし、
メンタル安定したらライブ行きたいし、
またちょこちょこBGMとして流していたりする。
ポケモンと同じ現象が起きていて、
「追えるものだけ追おう」、
「行けるやつだけ行こう」になったの。
彼らの活動すべてを追ったり、
参戦したりすることで、
自分のステータスが上がるって思い込んでたけど、
それが正義だって思ってたけど、
違うんだよね・・・(ああほんと愚か)。
そういう活動をやってる自分に酔ってただけ。
今は道内(もっというと札幌)のライブだけ行ってじっくり楽しんだり、
サブスクで配信されている曲を聴いて楽しんでます。
そうしたらやっぱり楽しむ”質”が上がったね。
なんだろう・・・
以前はライブ参戦に振り回されていたスケジュールが、
「この日ライブ、楽しみ~」って
日常の中の贅沢というか、楽しみにできたって感じ。
(伝わるかな・・?)
他人軸から自分軸に戻せたことにより、
楽しみの質を上げれた気がする。
そして、ステータスとしてではなく、
「好きだから」という理由に合うようになりました。
わたしが好きだから聴く。
元気が出るから聴く。
ライブを思い出すから聴く。
そこに親も他人も関係ない。
今ならそう強く胸を張って言えます。
わたしの音楽の原点はなんであれGLAYちゃんなのだ。
FF7について
FF7は北海道に移住して、
社会人になってから出会った作品。
なので、ココロの勉強をぼちぼち始めている時期ですね。
まぁ作品できる限りやりますわな。
FF7本編、CCFF7、FF7AC、
このあたりを網羅して。
あとはネットでプレイヤーの感想を読んだり、
みなさんが描いたイラストを見たりして。
(FF7Rが初めて発表された頃なので、
2015-2016年くらいかな?27-28歳くらいか)
正直FF7Rがまだ発表されて発売が決まってない頃だったので、
もどかしかったの覚えてます(笑)
FF7本編クリアしたものの、もどかしかったw
そのもどかしさを解消するために
FFのスマホゲームやったり、
ゲーセン行ってDFFACやったりしてました。
ただこの行動に関しては・・・
親どうこうという感じではなく、
純粋に”好き”、”楽しい”、
”もっとFF7を知りたい”って気持ちで
動けていたと思うのです。
見栄や執着、依存がほぼない、
単純に”好き”って思いで初めて動けた、
そんな作品です。
かつ割とすぐに「追えるもんだけ追おう」って
スタイルになったからね。
ここにちょっとココロの成長を感じるのです。
FF7R、1作目がすでに出ている今。
ええ、とても楽しいです(笑)
2作目はいつだろうか・・・PS5買わねばw
時系列でみると・・執着を手放し、より純度の高い好意・愛になってる
時系列でまとめてみるとこんな感じ↓
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
●10-20代:他人軸。好きなことすら他人と比べてしまう。人よりももっと行きたい、やりたい、体験したい。自分より上がいると悔しい。
好きではあるが、好きが依存と執着で上塗りされている感じが強い。追いかけることが義務。
「親に認めてもらう」ということに執着し、趣味に依存して生活していた感じ。
(趣味やってないと生きている意味がないと親に言われるから、異常なまでに趣味にのめり込む、依存やね。)
●20代後半から30代:自分軸。推し活の内容については他人と比べない。自分が思うままに推す。行けるときに行く。乗り気じゃないときは時間を置いてから見る・プレイする。自分の気持ちと推し活の波導が合うようにコントロールしている。
親のことはもうどうでもいい。知らねぇ、もうお前には振り回されない。
依存と執着はほぼない。ただ単に好き。愛してる。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ココロの勉強をしたおかげで
自分の考えが歪みに歪み切っていた事に気づき、
落ち込みながらも、凹みながらも、
自分と向き合い修正したことによって、
好きなことへの、趣味への向き合い方も変わりました。
親が亡くなったことも後押しになっただろうけど、
親の評価を一切気にしなくなった。
自分がやりたいか、やりたくないか。
執着と依存がほぼほぼなくなっている。
本当により純度が高くなっているし、
私生活とのバランスもしっかり取れている感じ。
何より楽しい、元気になる。ワクワクする。
この感覚を大事にしたい、
楽しいか、ワクワクするか。
まとめ:このまま突き進んで良い気がしてきた!
確かに深掘りしてみたら、
振り返ってみたら、
依存と執着がありましたね。
なんだろう、”好き”って気持ちで始めたけど、
そこに親が介入してしまって、
”好き”を”依存と執着”で上塗りされてしまってました。
で、親が正しいと思ってたわたしは、
そのまま成長して社会人になって
ココロが壊れてぶっ倒れたんですね。
うんうん。
現在の状況としては
依存・執着、どちらも手放せている状態。
純粋に”楽しい”を追求できています。
このまま進んで大丈夫だなって、
今回向き合って思えました。
よかったよかった・・。
もう大好きなキミ達を
見栄を張るために使ったりしません。
ただただわたしが”好き(愛)”だから、
推し活させていただきます。
ありがとう、キミたちのおかげで、
今生きていられます。
本当にありがとう。
では今日はここまでです。
考察にお付き合いいただきありがとうございました!
written by マイ(@iamxxxgv)
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