【DEATH】#1 「死」とは何か 初めての哲学書を読み進める

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本屋さんで
特集コーナーに設置してあって、
ぴーーんと来ました。



DEATH 「死」とは何か



そろそろ向き合っても
気ぃ狂わないかな、と思って
手を出してみました。


このボリュームの
哲学書は初めてです・・!







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理解を深めるために・・・自分のきりのいいタイミングで感想をまとめていきます。




流し読みにならないよう、
その都度メモを取ったり、
気になったところに
付箋を貼ったりして読んでいます。



理解を深めていく意味を込めて
自分のタイミングで
ブログに感想を書いていきたいと
思います。



なんだろう、
感覚でいうと
自主的にやる読書感想文です(笑)



やはり人間、避けては通れない死。
子どもの頃に”死”を知り、
自分が死んだら
存在も思いも記憶もなくなる・・・
この底知れぬ恐怖、
何もなくなること、
自分が自分でなくなることが
すごく怖くて・・・



考えたら怖くて・・・
何度発狂しそうになったか
わかりません。




それは32歳になった
今もそうで。



ふと死について考えると
怖いし、生きていたいと
強く思います。



恐怖の対象でしかない”死”を
どうにか受け止められないか。




そう感じて読み始めた次第です。




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まずは第1章から第5章まで。どのタイミングで人は死ぬのか・・?




まずは第5章まで読み進めました!
いったんここで
マイなりにまとめていきたいと思います。



初めに、定義として・・・
ここでは「魂」の存在は
考えられていません。




死んだら魂がどうなる、という
話ではなく。
もっと物理的なお話です。



人間が生きているという条件は?
死とはどのタイミングで死になるのか?



これを考えるにあたり
魂の存在は考えられていないようなので
そのあたりご承知おきください。
ほんっとに物理的な話になります。

苦手な人は続きを読まないでね。
(私は結構しんどいぞ(笑))



人間が”生きている”という定義



そもそも
人間が生きている、という定義は
どういったものなのか。



それは、P機能が同一の人物
来週のこの時間にも、
来月のこの時間にも、
来年のこの時間にも
存在していることを言う。



●P機能:人格、パーソン機能。その人がその人であるための機能。考え方などが該当する
●B機能:体の機能。歩いたり、呼吸したり。


本書の中で度々出てくるキーワードです!抑えておこう!




物理学では二つの説がある。
身体説と、人格説だ。
(この2つはこの先も
ずっと話題に出るので、
しっかり区別しておいた方が良き!)



●身体説:人間の”体”が存在するかどうか、体の機能(B機能)を果たしているかどうかで、生死を判断する
●人格説:人格(同じ信念や欲望、記憶)を持っているかどうかで、生死を判断する


こちらも度々出てくるキーワード!最初のうちに把握しよう!




人格説の方は
物理学者にも受け入れられてるし、
魂の存在を扱う
二元論にも受け入れられている説です!



人間が”死んだ”という定義



では続いて。
人間が”死んだ”という定義について



ここでも人格説と身体説で
定義の違いを見ていくぞ!


人が死ぬ=P機能とB機能が停止した時に、死んだ、となる。

●人格説:P機能が停止したタイミングで”死”となる。
●身体説:B機能が停止したタイミングで”死”となる、人格は必要ない。




なるほど、きっぱりと
分かれている。



著者のシェリー先生は、
「人格を持った人間として生きたい」、
これが目標とおっしゃっています。



つまりP機能が生きている状況。
P機能が機能しなくなった時、
人は死ぬ、ということになりますね。



でも・・・
P機能が機能しなくなっても、
B機能、身体は機能していることって
ありますよね。
そう、脳死です。



脳死について。どのタイミングで”死”になるのか



ここもねー
道徳的にというか、
感情的に難しい部分ではありますよね。



ここでも人格説と身体説で
見ていきます。



●人格説:脳死している場合、その人がその人であるための人格をつかさどるP機能が機能しない状態になっている。つまり”死んでいる”ことになります。
あくまで「その人の身体」を殺すことになり、その”人”を殺すことにはならない。(人格と身体を区別してるんだね)

”人格”が生存権を持っているならば、脳死状態で殺される(身体を殺す)ことは、殺人にはなり得ない

●身体説:脳死してもB機能(体の機能、心臓とか肺を動かす機能)が働いているので、その人は”生きている”という判定になる。
なので、移植をする場合、”その人を殺すこと”になってしまう





身体説で脳死のことを考えると、
非人格化されない権利
(自分の人格が消失されない権利)
」があると考える。
これにより生きていると判断されます。



この件についてシェリー先生は、
「人格を持った人間として生きる」を
貫いています。



ゆえに身体説で考えると、
脳死している状態は
すでに人格がないので(P機能が働いていない)、
”生きてはいない”となります。




なので、心臓摘出も、
道徳的にも乗り越えられるとのこと。



また、P機能を重視して考えると、
”P機能を果たせているか、果たせていないか”、
この観点が生死を区別するとおっしゃっています。



「自分が死ぬ」ということを分かっているようで信じていない



人は”自分が死ぬ”ということを
分かっているようで
信じていません。




医療保険に入ったり、
生命保険に入ったり、
”死”というものを理解して
それなりの対策はします。



「死」は免れない、と
口先では言っている。



だけど・・・
いざ余命宣告をされました。
あと持って1か月です。



そうなると
ある人は恐怖に震え、
ある人は絶叫し続けるかもしれない。



「死」を分かっていたはずなのに、
本当に死がせまったら
そんな行動に出てしまうの??




つまり口先では「死」を免れないと言っているけど、
完全には信じ切っていない。




「死」が目の前で迫ってきて
「死」を実感すると
急に行動が変わる。
(おびえたり、絶叫したりとか)



一度生死の狭間を彷徨って、
死を免れた人は
そのあとの行動が
ガラリと変わるとのこと。



仕事ばかりでなく
家族や恋人と過ごす時間を
増やす傾向があるそうです。



恐らく”死んだらそこまで”。
それを実感したからでしょう。



では生死を彷徨ったことがない人は、
「死」が急速に迫っていることを
想定しないで生活をしている。



だから急に行動が変わることはない。
想定しないから、信じないから
変わらない。
結構強力な主張とのことです。


「人間、最後は独りで死ぬ」ことについて




よくいいますよね。
人間、結局最後は独りで死ぬ」って。



最期は独りなんだって。



いやうん、
感覚的には分かる。



魂の存在で考えれば、
いくら家族に看取られようとも、
死ぬのは自分一人。



体から魂が抜けて、
人間として死んで、
あの世なり天国に行くときは
独りだと。



だけど、これは哲学。
もっと物理的に考えると、
「は?独りでなんかやることなって
その辺にたくさんあるだろ?」って
ことなんです。

(ちょっと言葉悪いw)



例えば一人でランチ、
一人でカラオケ、
一人で焼き肉、
一人で旅行。



独りで死ぬって、
それと同じことだ、と
言っているんです。




「独りで死ぬ」っていう言葉を
勝手にかっこよく感じて、
勝手に真理だと思ってるんじゃない??と。




正直これは斬新だった(笑)
攻めてるな~~~って感じましたね。
私は好きです、この考え方!



一番気になること、「死」はどうして悪いのか?



さーーーーここが!
一番気になったところ!



どうして死は悪いのか。



シェリー先生は、
死が悪い点について
何点か書いてくださっています。



・死は本人にとっては悪くない。残された者にとって悪い。(その人と思い出を作ることも、話をすることもできなくなるから)
・死ぬときに痛みを伴うから悪い→だけど、痛みを伴わない死もあるよね?となるとこれは真理じゃない
・死は相対的に悪い・・・存在している、生きていることによって得られる素晴らしいこと、良いことを体験することができない
→これを”剥奪説”と呼ぶ




剥奪説には超納得。
確かに生きていることによって
体験できることが、
体験できなくなるのは
正直しんどい。



ではどの時点で悪いのか。
いつ悪いのか、
時点を定める必要があるわけです。



時点が定まってないと、
例えば、自分が生まれる前、
まだ存在していなかったことを
考えると、
生まれる前の膨大な時間さえ
「悪」になる。




さらには、
人として生まれる可能性があったもの
(精子と卵子の受精ができず、
人として誕生しなかった存在)すらも
「悪」になっちゃうわけです。



だからざっくり
緩い定義で
こう時点を定めるのが妥当だと、
シェリー先生は書いています。




・悪いことであり得るのは、その人がいずれかの時点で存在すること
→「悪いことが発生した時に同時にその人が存在する」というがっちりとした定義よりも、定義を若干あいまいにすることによって、生まれる前の膨大な時間や生まれる可能性があったモノを悪にすることが無くなる!




そしてもう1点。
どうして死は相対的に悪くて、
生まれる前の膨大な時間は悪くないのか。




どちらもその人は
存在していないんだから
悪いんじゃない??、と
思うのは当然かと。



それに関しては、
こう書かれてました。



・生まれる前は喪失を伴わない、だが、死は喪失を伴う。だから悪く見られがち。
<喪失感の感じ方の大きさ>
将来持つであろうものを失う(生まれる前)<かつて持っていたものを失う(死)


・人間は進化してきたから、どうしても未来志向になる、これにより未来の時間を失うことが悪に見えるのかもしれない




なるほどな・・・。と
めちゃくちゃ本に
付箋貼りましたね!



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ここまで読んできての感想!


さて!!!!
ここまで読んできての感想!



まず、死について
ここまで言語化して
人に伝えるって
すごいな!って
思いました。




死について考えて考えて
調べて考察して、
それをまとめて文章にする。



考えるだけでも骨だけど
文章にまとめて本にする、
講義で話すって本当にすごい。



この本の厚みから伝わる
エネルギー。
まじで半端ない。




次に一番「うぉおおお」ってなった点。
物理的・哲学的にも
「死んだらもう存在しないから、
良いも悪いもない」と言っているところ。




「え、物理的哲学的に
死ってそんなもんなん!?」って
マジで驚きました。




本に書かれていましたが
体が行動する、壊れる、そして死」という
ただそれだけなんですって。



ただそれだけ。
そこに悲しいとか
そういう感情はない。



当然ながら二元論ではないから
魂の存在は考えられていないわけで。



死んだあとどうなるかなんて、
考慮されないわけです。



でもねー
私まだ割り切れない。
死んだら、存在しなくなるだけ。
ただそれだけってところ。



すごい感覚的だし、
シェリー先生に言わせたら二元論なのかもだけど、
そんなの悲しすぎる。



今まで生きてきて、
思い出を作って、
笑ったり泣いたりして。



それが死んだら
ただそれだけのこと、で
片付けられてしまう。



もしかしたら、
宇宙の真理って
そういうもんなのかもしれない。



人格を持った人間であっても
宇宙の大きな仕組みの中では
別にどうってことない、
ただどれだけのことなのかもしれない。




だけど・・・
まだ受け入れられないね。
今の段階では。



でも1つすっきりしたことがある。
そう「死」がどうして悪いのか。




把握できた、
だから怖いし、悪いって感じるんだって。


なんとなく形を見せなかった
底がない恐怖に
ある程度形を付けられて
今ちょっとほっとしてます(笑)



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まとめ:5章までのまとめはここまで。6章を読み進めていきます!




5章までの感想は以上!
ボリュームやばすぎるな・・・


まだまだ序盤、
「死」がどういうものか
知った段階です。



ここからさらに本書を読み進めて
どんな考えがあるのか、
吸収していきたいと思います。



個人的に楽しみなのが
「死を知りながらどう生きるか」
という部分。



そして「死んだら存在しなくなる、
ただそれだけ」という考えを
自分の中でうまく受け入れられるのか。



私の考えの変化も
楽しんでいきたいと思います。


また読んだら
キリのいいところで
感想文を書きますので
お楽しみに!!



それでは、長々とありがとうございました!




「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

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